アルコール依存症の恐怖15

伯父の手記(2)

ミーティングが終わって帰りしな、メンバー?のひとりから、〇〇教会発行?の冊子のようなものを「読み捨てても良いからぜひ読んでくれ、この中身は読まずとも、ここだけは読んでくれ」と「はじめに」の部分を示して手渡そうとしたので、私たち三人は、この冊子なら患者自治会にも届いているから要らない旨話しても引き下がらないので、私が「わかりました一応読んでみます」と預かりました。

私は翌日からその冊子を全部読み、〇〇教会宣教師である〇〇氏の筆になる部分「はじめに」「みこころが地でも行われますように」「あとがき」の合計34ページは繰り返し何度も読みました。

そこに書かれていることを私なりに要約してみると次の様です。


一、人間が経験しなければならないものは新生である。

新生とは、

(一)キリスト教に入ることや、教会の会員になることや、聖書を研究することや、酒・煙草を止めることなどを意味しているものではない。それらのすべてのことは、人間が自分の力でできることであり、それは意志の問題である。しかし、救われるということは、これらの人間の意志の領域とは何お関係もなく、救われたいとして、素直に主なる神に祈る意志である。

(二)従って救われたくないという意志の人は救われず、救われたいという意志の人は救われる。

(三)教会の会員であり、洗礼を受けて教会に通い、聖書を読み、良い生活をしようと努力していても、それは単なる名前だけのクリスチャンに過ぎない。それは、主イエスを自分の救い主として個人的に受け入れていないからである。ここに三種類の人間が居る。

①結婚・世代間の摩擦混乱、仕事、職場、会社、大衆社会における個人の疎外、孤独の各問題の背後に、自分中心の意志とわがままがある人間。
②自分の意思で得られたものだけでは満足できず、何らかの形で「主よ、あなたのみこころがなりますように」と祈りながらも、お金の問題など具体的な生活のことになると、すべて主に任せるのではなく、自分の思いを優先させる人間。
③優柔不断なため、みこころに反することをしてしまいはしないかと心配のあまり、結局何もしない人間。

これらの人間を通じては、主なる神のみこころは行われない。

(四)神のみこころを行うための出発点は、今までの自己中心、自分本位の道から意識して離れることである。そうすると主なる神は、それに答えてくださり、みこころをわきまえ知る霊をお与え下さいますが、しかしキリスト者がわきまえ知ることができるのは、どこまでもその一部であり、主イエスとまみえるときはじめて、すべてが明らかにされる。

(五)故に、聖書の中では「新生」という言葉は、必ず明確な、断固たる決断によって生じる転換を意味する「悔い改めなさい」という言葉と結びついて出て来る。

以上新生とは、このように、イエス・キリストにあなたの「すべて」の生涯を明け渡すということである。

二、私達クリスチャンは、主イエスの福音を伝える義務を、神のみ前に負っている。主イエスを信じ受け入れた人が新しく造られた者なのでなく、その人の内におられる主イエスこそが新しい創造なのである。その人の内に住まわれるイエス様によって、紙に対して死んでいた人間の霊は生かされるものとなる。

三、みこころを行うということは、きわめて実際的なことがらで、
(例)今の状況で譲るべきか、固く立つべきか、新しい車を買うべきかどうか、犬を買うべきかどうか。
(答)自分勝手に行動せず、日常生活において、主なる神のみこころが何であるかを尋ね求めることである。何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、自分の意思を主なる神に服従させること、神のみこころに明け渡すことを意識的に行うという心の一新によって自分を変えよ。

主イエスは、ご自分の意思を、父なる神に服従させなければ、決して父なる神との交わりを持つことはできない。

主なる神のみこころは、私達が主により頼り、主に信頼し、主の内に完全な満足を見出すようになることであり、真理をわきまえるようになることである。

その後私は、一回を除いて毎月曜日〇〇キリスト集会のミーティングに出ました。

ミーティングで他の人々が「主の〜」と自分の話をなさっても、私は自分のフィルターで濾過し(丁度タバコのフィルターと同じ様に)キリスト教的考えにならないようハイヤーパワー(偉大なる力)の話しとして聞いておりました。

しかし、キリスト教へ断酒を兼ねてのお誘いした話、キリスト教で言う兄弟姉妹への住宅あっせんの話、バイブルキャンプでの話、イエス・キリストの福音の話、ここに来ているのはそれなりの考えがあってのことだろうとか、仏教大学を出たのに洗礼を受けるに至ったとかの話が、いとも簡単にポンポン出てくるので、私には「この人達はクリスチャンであるから、つい教会の仲間同士の話になってしまうのだろう。多少はしょうがないことなのか」だいぶ引っかかり気味に写っていました。

ところが、あるバースデーのことですが、Aに入ればアルコール中毒は治るから、イエス・キリストを信じ助けを求めよとか、この会は大部分がクリスチャンで構成されているとか、Aはキリスト教で保っているのだからアル中や薬中には効果を発揮するとか、当会に様子を見に来たり、すぐ来なくなったりするのは、キリストを信じていないからであるとか、釈迦は天上天下唯我独尊と言っているが、キリストは天にも地にも地の下にもと言っているので洗礼を受けたとか、この世で祈らない人は最も不幸であるとかの話が出るに及んで、一通りのスピーチ?が終わった時点でいたたまれなくなり、一階の教会の40数名の前から姿を消しました。

帰り際の玄関のところには、来た時と同じにAの看板が下がっておりました。