アルコール依存症の恐怖16

伯父の手記(3)

私は次の、自分の発言の番が最初になったので、テーマはハンドブックから選ばれたものでしたので、それについて述べた後、A出版物からの2、3の引用の下に自分はこの会より、むしろ病院地元のHグループのミーティングの方が、ソブラエティーを目的の自己啓発に相当役立っている旨話し、この会がAの趣旨に反していると思われることと、出席しても大変居心地が悪いことを語り、今までのご好意には感謝するが、来週からは欠席する旨を告げて辞去した。

私はここで改めて、Aとは何ぞやとの素朴な疑問にとりつかれ、この際自分のあやふやなA関係の知識を整理補充し、誤れるA理解を修正する一助にもなりえれば幸い、との思い上がりも手伝って、急遽この文を寄稿する筆を取った次第です。

伯父の社会復帰

伯父は、この手記の中でAと呼ばれるグループの出版物をいくつも読み漁り、宗教への依存でアルコール依存症を治すことよりも、アルコール依存症の本質を見極め、依存症から抜け出すために、すべきことを模索していたようでした。

結論は曖昧でしたが、伯父自身が宗教的な集会を嫌っていただけではなく、アルコール依存症から立ち直る本来の目的から逸脱した、その所属グループに対する嫌悪から自力で立ち直る力を得たのは確かだったようです。

人は、時として普段では考えられないような決意や行動力を発揮することがあります。

良くも悪くも、ここぞと言う時に力を発揮して、変えることが不可能と思われていた人生の道程を、いとも簡単に変えることができたなら、劇的なその変化は、その人の人生そのものを新しいものに塗り替えることでしょう。

伯父は所属していた「アルコール依存症」のグループから抜け出すことで、一大決心をして見事に断酒できたようなのです。

しかも、アパートを借りて自炊し、中小企業に就職もしており、見事に社会復帰を遂げました。

私は、そんな伯父に会いにも行かず、祖母の面倒を見ることで精一杯にしていました。

祖母は、相変わらずマダラボケの症状で私を盗人扱いし、会いに行くことすら苦痛でしたが、買い物や銭湯に連れていかなければならなかったので、自分の感情は胸の奥にしまい込んで、作り笑顔で祖母を迎えに行きます。

毎日が苦痛である事に慣れてしまったのか、伯父のことで苦しんでいた時よりも気持ちにゆとりがあったのは、少ない給料でも生活ができる水準をキープ出来ていたためと思われます。

私は、いくら辛くても人生を諦めたり、自暴自棄になって全てを投げ捨てたり、何かに依存して現実逃避をするような性分ではないと思っています。

ただそれは、まだ若くて踏ん張りが効いたのと、愚痴を聞いてくれる友達や先輩達が側にいてくれたからです。

辛くても孤独では無かった。

そのことが、私を支えてくれたのだと思います。

一本の電話

幼少のころに世話になった伯父と再会し、同居したことで、生活は厳しくなり、酷く辛い毎日を繰り返していましたから、いくら社会復帰したとはいえ、伯父に会おうとはどうしても思えず、多分、意識的に存在を忘れるようにしていたのだと思います。

伯父も私に連絡をよこすことは皆無でしたし、そもそも連絡がないと言うことは問題がないと言うことだと勝手に理解していました。

仕事も忙しく充実した生活を送るようになり、次第に私の中にある伯父の存在は日を追うごとに薄まっていきました。

そんな夏のある日、職場に電話がかかってきました。

マスターが受話器を手で押さえて私を呼びます。

「フリオくん、電話だよ!」

「ありがとうございます。誰だろう?」

友人からの誘いの電話でしょうか。

それとも祖母から買い物のお願いでしょうか。

そんなはずはありません。

スマホどころか携帯電話すらない時代だとしても、職場に直接電話がかかってくると言うことは、緊急であることと相場が決まっています。

「警察だって!」

夏の終わりだと言うのに、マスターが発した言葉で、一瞬のうちに空気が凍ったような気がしました。

「えっ、あ、はい・・・・・・・」

私は緊張で強ばりながら、マスターから受話器を受け取り、恐る恐る左耳にあてがいました。